1億円の相続争いの事件を受けたとき、血気盛んな若い弁護士は1円でも多く取ろうと、あらゆる論理と作戦を使って勝利を得ようとする。それが依頼者にとって最大の利益だと考えるからである。依頼者もそれを求めていることが多い。しかし、それによって失うものの大きさにまで思いが至らない。
親族間で相続争いをすると、2度と親族のきずなは戻って来ない。仲の良かった幼い日の記憶など吹き飛んでしまい、その子どもの代、孫の代まで縁が切れた状態となってしまう。ひどい場合は、「あの家とは縁を切った。何となれば・・・。」と、末期の代まで悪口を言い続ける。5000万円を6000万円にするために、血を分けた兄弟姉妹と永遠に絆を切ってしまうのである。代理人として、これまで何度もそのような依頼者を見てきた。
しかし、仮に一時的に相続争いをしたとしても、長い眼で見れば、絆さえつながっていれば、また、助けられることもある。6000万円のところを5500万円にして、相手にもなにがしかは譲り、絆をつないでおく方が依頼者にとって利益となる場合もある。激しく争っている最中は、「あんな奴の顔も見たくない。」「あんな奴に1円も多くやりたくない。」と言うが、一度切れた絆は決して元には戻らない。憎しみ合うことはあっても、手をつなぎあうことはないのだ。血を分けた人間が永遠に憎しみ合うほど悲しいことはない。
「村八分」という言葉がある。仲間外れにするという意味だが、「十分」ではなく、どうして「八分」なのか。村の行事のうち8つ(祝い事、出産、病気見舞い、法事、建築、水利、年中行事、村の共同作業)については付き合いを絶っても、残りの2つ(火事と葬儀)は付き合いを絶たない、という意味らしい。この様に、農耕民族である日本人は古来より全部を絶つということは決してして来なかった。その点、全部を絶つ狩猟民族とは違う。10分のうち、特に大事な2分を残していれば、いずれは村の中に復帰できることから考えられた日本人の「知恵」である。
この頃、「どんな弁護士がいい弁護士なのか?」と、よく考える。年を取ったせいかも知れない。500万円のために絆を切らせる弁護士よりも、500万円は損をさせたとしても、近親者との最後の絆はつなぎ止めることに力を注ぐ方が「いい弁護士」なのではないのかと思うことがある。「あんな弱気の弁護士はつまらん。」と、依頼者から言われるかも知れない。依頼者からそのように言われようが、依頼者にとって最も良い途を探すのが「いい弁護士」なのではなかろうか。
事件によっては、徹底的に闘う事件もある。しかし、事件によっては、長い眼で見れば、一歩引いた方がいい事件もある。民事の争いの際、最後まで争わず、途中で話し合いで解決する「和解」という制度もある。まず、依頼者を説得し、その後に相手方の弁護士や相手方本人を説得する必要に迫られる。カッカと燃え盛っている当事者を説得することは並大抵のことではない。依頼者にとって耳の痛いことを言わなければならないこともある。しかし、勝つことだけが目的ではない。依頼者の人生そのものを守り、より良き人生を送ってもらうにはどうすればいいのか、に知恵をめぐらす必要がある。そのためには、弁護士自身にどのような人生が依頼者にとって最善なのかを判断する能力がなければならない。
私が司法修習生の頃、習った民事弁護教官から、「弁護士はバームクーヘンである!」といつも言われてきた。勝つだけでは決して依頼者のためにはならぬ。その依頼者にとって、どのような終わらせ方が最も正しいのかを考えて代理人を努めなければならない。そのためには、弁護士は種々な経験をし、年齢を重ねていかなければならない。AIによって取って代わられようとする弁護士業ではあるが、いくらAIであろうと、生の経験を積むことはできないし、依頼者の人生まで考えることはできない。
「勝つ弁護士」より「いい弁護士」をめざす、今日この頃である。
