「悪魔の証明」とは、「存在しないこと」を証明することは不可能であることを示す法的な考え方です。例えば、「お前がAさんを殺していないことを証明しろ。」と言われても不可能です。「殺した。」かどうかなら証明可能ですが、その逆は不可能です。
今回の高市総理をめぐる誹謗中傷動画作成依頼問題で国会が停止していますが、これも同様の問題です。
要は、「高市総理本人、あるいはその陣営から、動画の作成・配信を依頼した具体的な事実があった。」ことについての立証責任の問題です。
高市総理は一貫して「そのような依頼はしていない。」と回答しています。他方、「依頼があった。」と主張する野党側は、メールや音声データ、関係者の証言などを根拠として、依頼があったとしています。
この問題を考える上での大きな論点は2つあります。
先ず、「判断者は誰か?」という問題です。国会は裁判所ではありません。裁判所なら言い分が食い違っていても、証拠にもとづいて裁判官が事実の有無を判断してくれます。しかし、国会には「事実認定権限」はありません。本人が認めない限りは事実は認定されず、「おそらく~だろう。」という形でしか終わりません。強いて言えば、「国民一人一人が判断者である。」としか言えません。国民が「依頼があった。」と考えれば、次回の選挙で不利になる可能性があるに過ぎません。
次に、高市陣営が「依頼がなかったことを証明」することは不可能だということです。電話、メール、SNS、口頭の会話など、あらゆる可能性を完全に否定する証明はできません。これが、まさに「悪魔の証明」なのです。「依頼があった。」と主張する野党の方が「依頼」の存在を証明しなければならないのです。
証明すべきは、「いつ、誰が、誰に対し、どのような内容の依頼をしたのか。」という具体的な依頼の存在なのです。仮に、その依頼の存在を示すメール、メッセージ、録音、証言などがあれば、「依頼はあった。」と判断されるでしょう。逆に、それらが不十分ならば、「依頼があった。」と断定することはできません。
「悪魔の証明」とは、疑われた側に「なかったこと。」を永久に証明させるための考え方ではありません。むしろ、事実を主張する側に証明責任を負わせることによって、不当な疑いから人を守るための法の原則です。
したがって、この問題の本質は、高市総理が潔白を証明できるかどうかではなく、誹謗中傷動画の作成・配信について、具体的な「依頼」が実際に存在したことを、客観的証拠によって野党側が立証できるかどうかにあります。
法治国家では、印象や推測ではなく、証拠によって事実が認定されます。この原則を貫くことこそが政治への信頼と司法の公正性及び人権を守ることにつながるのです。
ちなみに、高市総理に対し、「(真偽をハッキリさせるために)週刊誌を訴えたらいかが。」との国会質問もありましたが、「いらぬ世話」としか言いようがないでしょう。また、誹謗中傷されたとされている小泉進次郎大臣や林芳正大臣が高市総理を訴えるなどということも考えられません。したがって、本件が裁判所に持ち込まれることはない以上、裁判所が判断することも考えられないのです。
更に、本件で問題なのは、正式な依頼がなくとも、国民が興味を持つ動画を作成し、それが多数回再生されれば、その動画の投稿者が利益を得る仕組みになっていることです。即ち、「これは、もうかる。」と思えば、依頼人からの正式な依頼はなくとも、積極的に投稿・配信する可能性が高い、ということです。
しかし、具体的な「依頼」がなければ、高市事務所の法的責任を問うことは困難と思われます。「面識がある。」「口をきいたことがある。」程度では不十分なのです。
このように、本件は様々な論点が複合的にからんでいる上、判断者が国民以外に存在しない以上、「白か黒か。」が決せられないまま終局を迎えて幕が引かれる可能性が極めて高いと考えられます。
