第207回  「〇〇審議会の危うさ」

近年、日本の政策決定において、「法制審議会」「有識者会議」「専門家委員会」などの存在感が極めて大きくなっています。政府は、重要政策を打ち出す際、まず審議会を設置し、「専門家による議論」を経て、その答申を踏まえて法案や制度改正を行います。形式としては極めて民主的かつ合理的に見えます。政治家の思いつきではなく、専門家が冷静に議論し、客観的知見に基づいて制度設計を行う…それ自体は本来、望ましいことです。
しかし、現実はどうでしょうか。
多くの場合、審議会や有識者会議は、「結論を導くための装置」と化しているのではないか、という疑念が消えません。
最大の問題は、委員を誰が選ぶのか、という点です。言うまでもなく、委員を任命するのは政府です。つまり、政府が本気で、ある方向へ政策を動かしたいのであれば、その方向に理解を示す人物を多数任命すればよいのです。
もちろん、露骨に賛成派だけを並べれば、「出来レース」との批判を受けます。そこで、形式的には反対派や慎重派も数名入れます。しかし、全体構成を見れば、多数は「政府方針に理解のある人物」で占められます。こうして会議は、“議論をしているように見えながら”、最初から着地点がほぼ決まっている状態になります。
近時の再審法改正の法制審議会などは、その典型です。
再審制度は、言うまでもなく冤罪救済の最後の砦です。しかし現行制度には、

  • 証拠開示制度が不十分
  • 検察抗告による審理長期化
  • 再審開始決定まで数十年を要する例がある

など、深刻な問題が存在しています。袴田事件や福井女子中学生殺人事件などをはじめ、多くの冤罪事件が社会問題化する中で、制度改革を求める声は強いです。そこで、再審議連が改正法案を作成するや、あわてた法務省は法制審議会を立ち上げました。
ところが、法制審議会の議論を見ると、「捜査機関側の懸念」や「確定判決の安定性」が繰り返し強調され、改革は極めて慎重な方向へと誘導されていきました。もちろん慎重論自体は必要です。しかし、委員構成を見ると、実務法曹、特に元検察関係者や、刑事司法の現状維持を重視する立場の者が圧倒的多数で占められています。本来、中立であるべき学者委員の大半が法務・検察寄りでした。
結果として、「議論した」という形式は整います。しかし、被害者救済や冤罪防止を強く求める立場は少数に留まり、制度改正は骨抜きになって行きました。
医療政策でも同じ構図が見られました。
高額療養費制度は、重い病気にかかった人々の命綱とも言える制度です。その自己負担引上げについて議論する専門家委員会においても、「制度維持」「財政の持続可能性」が強調される一方で、実際に高額治療を受ける患者や家族の切実な声は、しばしば周辺へ追いやられました。「患者団体も委員に入れた」と言いますが、具体的な負担額が呈示されたのは、委員会終了間際でした。
当然、国家財政の議論は必要です。しかし、政府が「負担増ありき」で委員会を組み立てれば、最終的に出てくる答申もまた、「一定の負担増はやむを得ない」という方向へ収束していきます。
ここで恐ろしいのは、政治責任が曖昧になることです。
本来、負担増や権利制限は、政治が正面から責任を負うべき問題です。ところが政府は、「専門家が議論した結果です」「審議会の答申を踏まえました」と説明することで、政治判断を“中立的専門判断”のように見せることができます。
しかし、専門家委員会は選挙で選ばれていません。国民に対する直接的責任も負いません。そして、その専門家を選んでいるのは政府自身なのです。
もちろん、すべての審議会が不公正だと言うつもりはありません。真摯に議論を重ねている委員も多いでしょう。しかし少なくとも現在の制度には、「委員選任を通じて結論を誘導できる」という構造的問題が存在します。
必要なのは、まず委員選任過程の透明化です。
なぜその人物が選ばれたのか。どのような立場・経歴を持つのか。賛成派と反対派の比率はどうか。こうした情報を国民に明確に示す必要があります。
さらに、本当に重要な制度改正であれば、当事者の声をもっと強く反映させなければなりません。冤罪問題なら、再審請求人や弁護団。医療制度なら、患者団体や難病当事者。単なる「参考人」ではなく、議論そのものに参加させるべきです。
「専門家が決めた」という言葉は、一見すると合理的で美しいです。しかし、誰がその専門家を選んだのかを見なければなりません。
民主主義において最も危険なのは、権力が「中立」を装う時です。