第45回  人のために

第45回  人のために
- 2012年4月6日

人のために
東日本大震災で発生した瓦礫の処理が遅々として進んでいません。瓦礫を受け入れる地方公共団体が少ないからです。明確に受け入れを表明しているのは東京都とあとわずかの地方公共団体だけで、その他の大半の地方公共団体は明確な意思表示ができていません。その原因は、ヒステリックに反対する一般市民が結構いるからということです。大分県においても、広瀬県知事が受け入れに前向きな意向を表明したところ、ヒステリックな反対意見がかなり出てきたとのことです。大震災の後は、「絆」などというキレイな言葉を並べ立てていたのに、いざ、自分たちに問題が跳ね返ってくると拒絶する。いつから日本人は利己主義的な人間になってしまったのでしょうか。瓦礫が、基準を超える放射線量を保有しているならまだしも、基準値以下であることが立証されているにもかかわらず、それに耳を貸さずに拒絶反応を示すのは如何なものでしょうか。
昔の日本人には、「人の役に立つ人間になる。」とか、「人様には迷惑を掛けない。」という価値観がありました。しかし、敗戦と同時にこのような価値観はなくなり、「人様に迷惑は掛けても、自分に迷惑を掛けられては困る。」という価値観がまかり通るようになりました。私が住んでいる団地のバス停問題もその1つです。バス停は今まで空き地の前にありましたが、その空き地に家が建つため、その地主さんからバス停の移転を求められたのです。自治会の会長さんは隣などにいろいろあたってみましたが、「バス停が自分の家の前に来ると困る。」と言われ、なかなか決まらず、結局、引き受けてくれるという寛大な方のおかげでようやくバス停の移転先が決まったという経緯があります。バスが必要、バス停も必要、だけど、自分の家の前に来られては困る、ということなのでしょう。廃棄物についてもそうです。大量消費社会の現在、大量のゴミが発生します。ゴミは必然的に発生する、したがって、それを処分することはわかる、しかし、その廃棄物処分場が自分の家の近くに来ては困る。廃棄物処分場が来ることによって、近隣の土地の価格が下がったり、あるいは環境に影響を与えたりする可能性が高いのであれば、それはやむを得ないことかもしれません。しかし、そのような可能性がほとんどないにもかかわらず、とにかくヒステリックに反対するという現状は如何なものでしょうか。沖縄の米軍基地、また然りです。
GHQが作った日本国憲法は全99条からなりますが、第3章には「国民の権利及び義務」が規定されており、全部で30条あります。この中の大半は権利に関する条文で、義務に関する条文はわずか3条だけ。即ち、「納税の義務」「教育を受けさせる義務」「勤労の義務」。個人主義・自由主義を強調するあまり、「人のために」とか、「地域のために」とか、「国のために」という観点が欠落してしまっていると言わなければなりません。権利意識は高まったのに、義務は負担しない、というのは、どこか片手落ちの感がします。ここいらで本当に憲法を改正して日本人の精神構造を変えていかないと日本の将来は限りなく暗いものになってしまうでしょう。