第176回  優しい国

人は必ず、いつか死にます。 その時、何かを恨んで死にたいでしょうか、それとも悔いなく笑顔で死にたいでしょうか。 勿論、ほとんどの人の答えは後者でしょう。 これまで種々の争いに関与し、見てきましたが、影響力が大きいのは、やはり、国が一方の当事者となっている訴訟です。その中でも、特に、国に対する国家賠償請求訴訟(国から何らかの損害を与えられたので、その賠償をして欲しいと求める訴訟)です。 例えば、無罪なのに長期間拘束されたとか、公害企業に許可を与えたので被害を蒙ったとか、これまでも種々な国家賠償請求訴訟が行われてきました。中には、言いがかり的な訴訟も多かったでしょう。しかし、中には本当に深刻な被害を蒙った事件もあります。 現在、国等が当事者となっている訴訟の件数は、令和4年12月時点で5421件。その中で、2審すなわち高等裁判所で国が負けて、国が上告している件数は4件。国も当事者の一方です。3審制なので、当然に国といえども最高裁に上告する権利があります。 しかしながら、国と個人とでは圧倒的にその力が違います。具体的には、国には、お金、時間、人材があります。これに対して、一般の個人には、お金もなければ人材もありません。そして、決定的に違うのは、個人には、時間がない、ということです。2審で勝ったときの原告らは、「よかった。裁判所に救われた。」と手を取りながら涙します。 これに対し、国が最高裁に上告したことを聞いたとき、彼らは、「国はいつまで我々をいじめれば気が済むのか。」と言って、今度は悔し涙を流します。 また長い闘いが始まるのです。 原告らも日本国民です。同じ家族の一員です。最後まで国の立場から徹底的にやらなくてもいいのではないかと思います。裁判は時間が長く掛かります。特に国相手の裁判は時間が掛かります。1回と1回の間が半年というのもざらにあります。高齢の原告らにしてみれば、1日1日が身を切られる思いです。国を恨みながら亡くなることも多いのです。「こんな国に生まれなければよかった。」との思いを抱いて亡くなってしまうのです。そうさせないために、国には「優しさ」が必要です。彼らが亡くなるときに、「この国に生まれてよかった。」と考えるか、この国を恨んで死ぬか。是非、「この国に生まれてよかった。」と思われるような優しい国にしたいものです。 高裁で負けたということは、それまで6名の裁判官が関与したということです。6名の裁判官が関与して国が負けたんですから、もうその段階で、家族の一員である原告らと闘わなくてもいいんじゃないでしょうか。 確かに、高裁の判断が分かれている場合に、統一的判断を求めるべく、最高裁に上告することは已むを得ないでしょう。 しかし、そのような特別な場合以外、国が高裁で負ければ、もう最高裁へ上告しないということにしたらどうでしょう。 入管法改正の時、それまで難民申請を何度でも行っていれば母国に送り返されないとの取扱い(「ノン・ルフールマン原則」といいます)をやめ、2回難民申請を行って認められなければ送り返してもいい、とされました。その時、法務省は、「2回難民申請をして認められておらず、この判断がひっくり返る可能性が低いから。」と言っていました。 これと同じ考え方が、国家賠償訴訟でも言えるのではないでしょうか。 是非、国民に対して優しい国になりたいものです。