第172回  血筋(血統)

新年早々、血筋(血統)について考えさせられることがありました。

1月10日、11日に、豊後玖珠家畜市場と豊後豊肥家畜市場で実施された子牛の初競りに来賓としてご招待していただきました。その時に渡された、初競りにかけられる子牛の名簿を見たときです。

子牛の性別、生年月日、体重などは当然として、それ以外に、父牛の名前、母牛の名前・登録番号・得点、母牛の父牛の名前、母牛の祖父牛の名前、母牛の祖祖父牛の名前まで、しっかりと記載されているのです。血筋(血統)を明記し、より優れた産肉能力を持っていることを明確にするためだと思います。

食肉産業ではごく当たり前に行われている競りではありますが、自分の運命などまったく知らない子牛たちの純粋な大きな瞳を見た時に、生まれながらにして価値を決められて売られていくことの理不尽さに、何ともやりきれない複雑な思いを抱いてしまいました。

人間に関して言えば、血筋で価値を測ることなど言語道断ですが、血筋を「生まれ」と置き換えれば、その「生まれ」は、時には、自分にとって「味方」にもなれば「敵」にもなる可能性をはらんでいます。

例えば、厳格な代々医師家系の家に生まれた場合。「味方」の部分としては、親族の繋がりや交友関係を利用して特定症例に特化した病院を紹介してもらいやすい、自分で開業しなくても親の築いた病院を継ぐことができる、等が挙げられます。

反対に「敵」の部分としては、職業を自由に選べず、医師になって病院を継ぐことが生まれながらの義務として課せられてしまう、結婚相手にも医療関係者を求められてしまう、等でしょうか。

このような「生まれ」を、幸福だと感じるのか、はたまた重荷に感じるかというのは個々それぞれだと思います。幸福だと感じるのであれば喜んで医師になる道を選ぶでしょうし、重荷に感じるのであれば、医師家系に生まれた自分の運命を恨むことでしょう。

しかし、人には自分の人生を自分で選択して生きて行く権利があります。

自分の「生まれ」に縛り付けられることなく、自分がしたいことを選んで生きて行くこの権利は、すべての人間に平等に与えられています。

ちなみに私の場合は、半農業・半教師の家に生まれましたが、その道には進まず、弁護士から国会議員になる道を選びました。父は当初は私が教師になることを望んだようですが、大学を卒業して司法浪人になった時点でそれは諦めたようです。そして、私は、国会議員でなくなった時にまだ身体が動くのであれば、再び田舎の一弁護士として、窃盗や覚せい剤取締法違反等の刑事事件を犯した人たちの弁護をしながら残りの人生を過ごしていきたいと考えております。

要は、最期の瞬間に、「自分の人生悔いなし。」と思える生き方をすることこそが、我々人間に与えられた最大の特権なのではないでしょうか。「生まれ(血筋)」などに左右されることなく、自分の意思で自分の人生を切り開いていくという強い心構えを持つことこそが大切だと思います。