第205回  「批判する人、される人」

政治の世界において、「批判」は避けて通れません。むしろ、批判されない政治家など存在しないと言ってよいでしょう。仕事をすればするほど「批判」は増えて来るし、何もしなければ「批判」は増えません。問題は、批判そのものではなく、「誰が、どの立場で、どのような覚悟をもって語っているのか」という点にあります。
先般の日米首脳会談において、高市早苗総理は、難しい外交の舵取りを見事にやってのけました。安全保障、経済協力、対中政策など、いずれも一筋縄ではいかないテーマばかりです。国内外の利害が複雑に絡み合う中で、発言一つ、態度一つが国益を左右します。しかも、相手はあのトランプ大統領です。その重圧の中で決断を下し、交渉に臨むというのは、外から眺めているだけでは想像しきれないほどの緊張と責任を伴うものでしょう。
しかし、どれほど成果を上げたとしても、必ず批判は生まれます。「譲歩しすぎだ。ゴマすりだ。」「もっと強く出るべきだった。」「国内向けのパフォーマンスだ。」――こうした声は、ある意味で健全な民主主義の一側面ではあります。ですが同時に、そこには当事者としての重みを欠いた言葉も少なくありません。
高市総理の訪米・日米首脳会談に対する批判を聞くと浮かんで来るのが、中島みゆきの楽曲「ファイト!」の一節です。「戦う君の歌を、戦わない奴らが笑うだろう。ファイト!」。行動する者は笑われます。しかし、それでも戦うことに価値があるのです。
高市総理のように、国家の意思決定の最前線に立つ人物は、常に「戦う側」にいます。そこでは、理想だけではなく現実との折り合いが求められ、時に不本意な選択も迫られます。完全な正解など存在しない中で、よりましな選択を積み重ねていくほかありません。その苦闘を知らずに結果だけを切り取り、批判することは容易です。今回の高市総理とトランプ大統領との会談に関し、最初のハグはみっともない、「ドナルド」と呼んだのは親しみの演出が過ぎる、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけである。」と言ったのはお世辞が過ぎる、などといった批判が出ています。しかし、もし、高市総理が「トランプ大統領、あなたの行為は国際法に違反するから、すぐにイランへの攻撃を止めなさい。」と言ったら、どうなっていたでしょう。高市総理は、日本とアメリカとの関係性、トランプ大統領の気質などを十分に考慮したうえで、日本の国益と日本国民のためにあのような行為に出たのです。
一方で、批判する側にも役割はあります。権力の暴走を防ぎ、政策の問題点を指摘し、より良い方向へ導くことは民主社会に不可欠です。しかし、その批判が単なる傍観者の嘲笑にとどまるならば、それは建設的な議論とは言えません。批判するのであれば、自らもまた責任ある立場に立つ覚悟、あるいは代案を示す誠実さが求められるのではないでしょうか。
「戦う者」と「戦わない者」の違いは、立場の違いであると同時に、覚悟の違いでもあります。高市総理の外交をどう評価するかは人それぞれでしょう。しかし少なくとも、高市総理は、国家の代表として日本国民のためにあのトランプとのむずかしい交渉に臨んだのです。国益と国民を1人で背負って、あの会議に立ち向かったのです。結果に対する批判はあって然るべきですが、その裏にある責任とリスクに思いを致して欲しいのです。

中島みゆきの歌「ファイト!」が今なお多くの人の胸を打つのは、そこに「生きることの厳しさ」と「それでも前に進む者への共感」があるからでしょう。
「ファイト!」を聴いたことがない方。是非、聴いてみて下さい。