第93回   「司法的救済」の限界

第93回   「司法的救済」の限界
                                                          - 2016年5月6日

「司法的救済」の限界
 今回の熊本・大分地震での被害はございませんでしたでしょうか。地震で亡くなられた方には心からお悔やみ申し上げるとともに、被害に遭われた方には見舞い申し上げます。
 さて、今回の地震災害を通して改めて痛感したのは「司法的救済の限界」ということです。「司法的救済」とは、ある権利侵害があった場合に、司法(分かり易く言うと、裁判所)の手によってその権利侵害の回復を計るということです。しかし、司法的救済には次のような制約があります。
 第1に、原告となった人しか対象とならないということです。仮に1万人が同じ被害に遭ったとしても、100人しか裁判を起こさなければ100人しか救済されず、残りの9900人は救済の対象外です。
 第2に、時間とカネがかかるということです。裁判をしている間に亡くなったり、お金がないので裁判を断念するということはよくあることです。したがって、真実の弱者救済とは言えない面があります。
 第3に、「事後的救済」に限定されるということです。即ち、被害が発生した後に損害を賠償してもらうという形でしか被害の救済が計れないのです。
 第4に、今回の地震のように、相手が自然であり、相手に「故意」「過失」がない場合は基本的に責任追及ができません。いわゆる「過失責任主義」と言われるものです。
 今回の地震、まさに、自然が相手。司法的救済は原則として無理と思います。(もっとも、例えば、地震の前から借家の賃借人が大家さんに対して、「屋根が壊れかけているので何とかしてくれ。」とつねづね申し入れていたのに大家さんがそれを無視し続けていたところ、今回の地震が発生し、賃借人が崩落した屋根の下敷きになって死んだ、というようなケースであれば、大家さんに対して賃貸借契約にもとづいて安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求をすることは可能かもしれません。)
 このような、司法的救済が困難な場面にこそ政治的救済(あるいは、「立法による救済」)が必要であり、かつ、最も有効に機能することになります。法律さえ整備できれば、先に述べた司法的救済の限界はすべて克服できるのです。即ち、①裁判などを起こさずとも、被害に遭った事実があれば救済の対象とすることが可能、②カネは基本的に不必要、時間も訴訟より早い、③事前に危険な地域からの脱出を求めることも可能、④一定の割合で補償を認めることが可能、となります。
 したがって、政治的救済はその内容次第ではより多くの人々を救済することが可能となるのです。その意味で、政治家に課せられた責任は大きいと言わなければなりません。最後になりますが、一日も早い地震被害の回復と安心して暮らせる生活環境の復旧を祈念して止みません。
 (付言・・・当事務所は別府事務所の窓ガラスにヒビが入った程度の被害だけでした。)