第82回  異なる判決

第82回  異なる判決
                                                          - 2015年5月1日

異なる判決
 今月、原子力発電所(以下、「原発」といいます)の再稼働の差し止めを求めた仮処分に対し、2つの裁判所でまったく結論の異なる決定が出されました。4月14日、関西電力高浜原発3、4号機をめぐる再稼働の差し止めを周辺住民らが求めた仮処分申立で、福井地裁は再稼働を認めない決定を出しました。決定理由の中で樋口英明裁判長は、原子力規制委員会の新規制基準は「ゆるやかに過ぎ合理性を欠くものである」と判断しました。他方、九州電力川内原発1、2号機をめぐり周辺住民らが再稼働差し止めを求めた仮処分申立で鹿児島地裁の前田郁勝裁判長は、4月22日、原子力規制委員会が策定した原発の新規制基準に「不合理な点は認められない」として同申立を却下する決定をしました。
 このように、おなじ争点であるにもかかわらず、結果がまったく異なっていることに対し、一般の国民は極めて不合理であると考えると思います。2つの決定で最も顕著な違いは、差し止めの是非を判断するにあたってのその裁判官の基本的な姿勢だと思います。福井地裁は、絶対に安全であることやリスクがゼロであることを極めて重視していました。これに対し、鹿児島地裁は、科学技術には一定の不確実性が存在するとの前提に立ち、原発を稼働した際のリスクが社会通念上許される程度かどうかを判断すべきだとしました。確かに、科学に絶対などということはなく、絶対リスクのない科学技術などはおよそあり得ないでしょう。例えば、絶対に落ちない飛行機はあり得ないし、絶対に事故をしない車もあり得ません。だからと言って、絶対に落ちない飛行機じゃないから飛行機を飛ばしてはいけないということにはならないと思います。
 原発に関してはいろいろな考え方があるところですが、電力を供給する技術ということを考えたとき、石油・石炭・太陽光・風力だけでこの日本の電力全体を賄うことは到底不可能と言わざるを得ません。また、電気料金も大幅に値上がりしていく可能性があります。原子力発電所の安全性をより高め安定した電力供給をするということが国家の経済の安定性をもたらすものであり、100%の安全が保証できないからと言ってこれを一律に排斥するのはいかがなものでしょうか。特に、福島原発が被災したのが地震のせいなのか津波のせいなのか、その原因がはっきりしていないのに、いつの間にか地震によって原発事故が起きたという問題にすり替わっているような気がしてなりません。地震には耐えたけれども津波にやられたと考えるのが筋ではないでしょうか。だとすれば、現在の原子力発電所がすべて地震に耐えたということであり、今回の新規制基準はより厳しい基準を持っているわけですからより100%に近い安全性が保証されていると考えてもいいと思います。その意味で、私の基本的考え方は鹿児島地裁の裁判官と同じです。
 一方、福井地裁の裁判官は、それ以前にも原発の差し止めをする判決を書いており、一種の「原発は絶対認めない教」の信者であると言われている人です。このように、信念として原発を認めないと考えている人に、原発が規制基準に合うかどうかと判断させることがそもそも無理です。電力会社側が裁判官忌避の申立(この裁判からこの裁判官を外してほしいという申立)をしたのも、ある意味、納得できる面もないわけでもありません。ただ、裁判官も千差万別、いろんな考え方の人間が混じっているわけです。それがおかしければ更に上級の高等裁判所、最後は最高裁判所に収斂(しゅうれん)されていくのが裁判の仕組みですから、この裁判官が特定の思想信条の持ち主だからと言ってこの裁判官を裁判から外すということは裁判所の体制からすれば認めにくいでしょう。いずれにしても、同じ論点でも担当する裁判官によって180度見方が違うということがこの2つの原発を巡る差し止めの裁判から明らかになるところです。
 我々も常日頃の裁判において、依頼者から、「裁判で勝ちますか、負けますか。」ということを聞かれることがよくあります。しかし、この裁判を引き合いに出すまでもなく、担当する裁判官によって結論が変わることは良くあることなので、「絶対に勝つ。絶対に負ける。」という言い方は絶対に出来ません。「担当する裁判官が我々と同じ感性を持ち、尚かつ、こちら側に好意を持ってくれているのであれば勝つ可能性は高いでしょう。しかし、感性がまったく違ったり、あるいはこちら側に対して悪意を持っているのであれば負けるかも知れません。」という抽象的な言い方しかできません。これを不満に思う依頼者の方は多いようですが、やはりこれは裁判の限界だというふうに考えていただきたいと思うのです。