第58回  「 憲法改正 」

第58回  「 憲法改正 」
                                                         - 2013年5月10日

憲法改正
 憲法改正が争点となっています。憲法には、「この憲法の改正は、各議員の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を受けなければならない。この承認には特別の国民投票または国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」と規定されています(同法96条1項)。即ち、憲法改正の要件として、①衆議院及び参議院の両議員の3分の2以上の賛成のあること、②国民の投票を受け、その過半数の賛成を得ること、という二つの高いハードルが設定されているのです。現憲法は、大東亜戦争に負けた後、GHQによって作られました。そこにはほとんど日本国民の意思というものが入っていません。当然、憲法も法律である以上、時代と共に変化して然るべきものです。しかし、二つの高いハードルのおかげで、これまで憲法改正が為されたことは1度もありません。

 おもしろいのは、憲法改正を推進しようとする勢力は保守的勢力(自民党、維新の会、民主党保守派)であり、憲法改正反対の立場を取るのは革新系(共産党、社民党、民主党革新派)ということです。革新系と言われる陣営が憲法改正に反対の姿勢を取るのは、もはや革新とは言えず、守旧派そのものではないでしょうか。辞典によると、「革新」とは、「因習的な体制を止めて新しいものに変えること」「方針として体制打破を思考する様子」と解説されています。60年前にアメリカによって作られた憲法を後生大事に押し頂いて、これをまったく改正することすら認めようとしないのはいかがなものか。ひどい意見になると、改憲の議論すらしてはならないなどというのもあります。議論すらさせないというのは、どこかの独裁国家に等しいとすら言わざるを得ません。
 革新系が反対する理由は、「もし、憲法改正のハードルが下がれば、憲法9条が改正され、それによって集団的自衛権の行使が可能にさせられてしまう。そうなれば、日本が再び戦争に巻き込まれる、あるいは戦争に加担する恐れがある。」ということのようです。集団的自衛権の行使を認めないのは、世界的に見ても日本国くらいなものではないでしょうか。自分の国は護ってもらいながら、同盟国が武力行使を受けたとしてもそれを助けることができないということが通用するはずがないと思うのですが・・・。

 いずれにしても、両議員の3分の2以上の賛成ということになれば、国会での発議すらできないことになり、国民が憲法改正の議論さえできないということになってしまいます。これは、国民は愚かであるから憲法改正の議論すらさせる必要がないという、国民蔑視の論理ではないかと思うのです。確かに、田中眞紀子さんを熱烈に支持したり、小泉進次郞君がアイドルのようにちやほやもてはやされたりする状況を見ると、国民を本当に信用していいのか首をかしげたくなるような場面がないでもありません。国の政治を任せる国会議員が真実の超エリートであり、彼らに任せておけば一般国民は何も心配をすることがないといふうな尊崇の念を抱けるような政治家であれば国民の意見など聞く必要がないのかもしれません。しかし、現実の政治家を見るにつけ、尊崇の念や畏敬の念をもって見ることができる政治家はほとんどいないような気がします。だとするなら、政治家に決めさせるよりも国民自らが決めるという制度の方がいいのではないでしょうか。
 日本という国家の基本及び日本国民の権利や義務などを規定した最高法規である憲法について国民が議論できないということは非常に悲しいことです。実際、憲法を1度も読んだことのない人、憲法にどのようなことが書かれていることすら知らない人が圧倒的に多いのではないでしょうか。日本国民でありながら、日本国憲法にどのようなことが書かれているかまったく知らない、その内容がいいか悪いかを知らない、それを改正するすべすらない。これでは日本国民としての自覚や誇りが生まれるはずがありません。

 先日、20世紀における屈指の政治家であるイギリスのサッチャー女史が亡くなりました。雑貨商の娘からイギリスの首相にまで昇り詰め、「鉄の女」と言われました。決して自分の信念は曲げず、労働組合等と対決しながら様々な改革を行い、フォークランド紛争では積極果敢にイギリス軍を派兵したことは有名です。改革をする場合には当然痛みを伴います。八方美人では改革などできません。そのゆがみがどこかに出てくることはやむを得ないのではないでしょうか。日本においてもサッチャーのような鉄の信念を持った偉大な政治家が出現するのを願うばかりです。