第18回 権力と権威

第18回 権力と権威
                                                         - 2010年1月8日

権力と権威
 小沢一郎民主党幹事長には、「権力」はありますが、「権威」がありません。天皇陛下には、「権威」はありますが、「権力」はありません。このように、日本は、神武天皇始まって以来、基本的に権威と権力が分断された数少ない国家なのです。世界を見渡すと、権威と権力が一体化した国が大半です。特に権威と権力が一人の人間や一つの党に集中した国家を「独裁国家」と言います。北朝鮮の金正日然り。中国共産党然り。

 権威と権力が一体化した場合に、それが人民に対する抑圧、搾取という形で現れることは、過去の世界史を紐解けば明らかです。特に、社会主義国家等は古い権威をすべて崩壊させ、新しい権力が権威を意図的につけようとするために、この傾向は顕著です。
 日本の場合、これらの独裁国家と異なり、天皇陛下には、「権威」はあるものの、「権力」は持たせないという統治形態が長年培われてきました。

 ところで、そもそも、「天皇」という存在は、何なのでしょうか。農耕民族であった日本の民衆が、明日の豊作を求めて祈願する際に、みんなのために祈りを捧げた部族の長が天皇の発祥であると言われております。そして、聖徳太子が初めて「天皇」という言葉を使ったとも言われています。(「天皇」は、「天照皇太神」の略と思われます。)
 以来、日本の民衆は天皇を崇め奉りながらも、「権力」は違うところで行使し、天皇の権威の前に権力の行使を抑制してきたという歴史があります。(もっとも、歴史的に誤りが起こったことも何度かありますが・・・。)従って、我々日本人は、「権力」が天皇陛下の権威を利用することについては非常にアレルギー的なものを感じる訳です。

 今回、小沢幹事長が中国の次期国家主席と言われている習近平副首相と天皇陛下を急遽会談させようとしましたが、どう考えても、「権力」が天皇陛下の「権威」を利用したと見ざるを得ません。「権力」が天皇陛下の権威を利用したことは、日本の歴史において何度かありましたが、同じような過ちを繰り返させる訳にはいきません。「権力」が「権威」を傅(かしず)かせるようなことは決して許されないのです。