5月、郷里・安岐町西武蔵で「豊後三賢人」の一人・三浦梅園先生の生誕300年を祝う「梅園祭」がとり行われました。梅園先生といえば、ほとんど独学で独自の学問体系「条理学」を築き、「梅園三語」と言われる「玄語」「贅語」「敢語」を著したことで有名です。
しかし、私がもっとも尊敬するのは、修業時代のわずかな時期を除き、それ以外は、この山深き国東市安岐町西武蔵で暮らしながら、かくも高邁な思想体系を打ち立てたことです。
我々が西武蔵小学校に通っていた頃、校歌とは別に、必ず「梅園先生の歌」を歌わせられていました。その2番に「山に生まれて 山に死ぬ 名利をよそに生きた跡」というのがあります。この歌詞が好きで、今でも覚えています。私が理想とする生き方です。
ところで、このように、土の匂い、草の香りのする、この故郷を愛して止まなかった梅園先生も300年前に国東半島の中心に鎮座する両子山を毎日のように臨んでいたことでしょう。
という思いから、久しぶりに両子山に登ってみました。
721メートルという決して高くない山ですが、国東半島を四方に見下ろすその姿に、今更ながら感銘を受けたのでした。
先ず、両子寺に着き、住職(私の西武小学校の大先輩)と雑談をしてから、山道の方を、土の匂い、草の香りを味わいながら山頂に向かって歩き始めました。
途中、百体観音、鬼の背割岩、鹿の爪石など、いわゆる「七不思議」と言われる個所を過ぎ、ひたすら頂上へ。山道から合流した道は頂上までコンクリート道になっており、時代の推移を感じました。頂上に近づくにつれ、風倒木が増え、台風の脅威をまざまざと見せつけられたのでした。
登山の格好をして来なかったので、非常に歩きづらかったのですが、「まだ、着かないの?」と文句を言う随行者に、「もうすぐ。」と詐言を数回弄し、ようやく頂上に到達しました。
下山を開始し、登山口あたりまで来たとき、登り始めの時には気がつかなかった石碑があることに気がつきました。
「世の中の 正しき道を一筋に
進みて御国の 未を開かめ」
郷土・安岐町輩出の政治家・重光葵の歌でした。
ミズーリ号上で降伏文書に調印した隻脚の外務大臣です。
降伏文書に調印したときの心境を、重光は次のように詠んでいます。
「願わくは 御国の末の栄行き
我が名さけすむ 人の多きを」
(いつか日本が再び繁栄して、降伏文書などに調印した自分の名前を蔑む人が多くなることを願う、との意。)
重光葵は、国際連盟で「日本は東西の架け橋になる。」と演説したことでも有名ですが、故郷・安岐町の大々先輩でもあるのです。
重光葵も、土の匂い、草の香りを感じながらこの田舎で生まれ育ち、そして、敗戦国日本を復興へと、そして世界の中心へと導いた一人であることに思いを至しました。
胸を熱くしました。
学問の世界での三浦梅園、政治の世界での重光葵。二人が愛した土の匂い、草の香り。コンクリートジャングルの中で暮らしていようとも、決してこれを忘れることがあってはなりません。日本人として、豊後人として。