第156回  刑罰の目的

刑罰の目的は、「応報」(仕返し)でしょうか、それとも「教育」でしょうか。

一昨年、東京・池袋で車を暴走させて母親と3歳の子どもを死亡させ、しかも裁判では無罪を争い、禁錮(※①)5年の実刑(※②)判決を受けた元高級官僚のA氏が、先日、刑務所に収監されました。なんと、おん90歳とのことです。確かに裁判で自分の過失は否定していたものの、法廷にはマスクを付け車椅子に乗って付添人に押されて登場し、見るからに痛々しい姿でした。判決が認定した事実が真実であれば、将来のある2人の生命を(過失とはいえ)奪ったのですから、禁錮5年くらいは已むを得ないかも知れません。特に、遺族の方々からすれば、軽すぎると感じられても当たり前です。

しかし、車椅子の90歳の老人を今から刑務所に入れることに何となく釈然としないものを感じるのは私だけではないと思います。

刑罰の目的が「応報」なのか「教育」なのかというのは古くて新しい問題です。目的を「応報」と考えれば、本件の場合、5年間ぐらいの禁錮刑にするのは当然です。しかし、目的を「教育」と考えると、90歳の老人に今から「交通違反で事故を起こさないように運転するにはこうすべきである」との教育を施すということはなかなか考えにくいものがあります。やはり応報的な考え方で刑罰はできているのでしょう。

「死刑制度は是か非か」という問題も古くて新しい問題です。刑罰の目的を応報ではなく教育であると考える立場からは当然に死刑廃止ということになります。死刑にしてしまったら、教育も改善もあり得ないからです。先進国で死刑廃止がすう勢を占めているのは刑罰を教育的にとらえているからでしょうか。それとも単純に死刑は残酷だからと考えているからでしょうか。逆に応報と考えるのであれば死刑存続は当然ということになります。「何十人も殺害したような犯人を何年も国家の費用で養うのは無駄である。」との考えもあります。日本でも死刑制度を存続させるのか、廃止するのかを真剣に議論する時期が来ているのかも知れません。

また、特定のイデオロギー色に支配された国家であれば、そのイデオロギーに反する活動をしている活動家に対しては「刑罰」という名の教育を課す傾向があるようです。したがって、そのような国では刑罰の目的を教育と考える傾向が強いようです。以前、中国に行って現地の中国人の弁護士と会食をした時、その弁護士から「中国の弁護士はあまり刑事事件をやりたがらない。刑事事件であまり争うと、国家と争っていると見做されて、その弁護士自身が逮捕され刑事裁判にかけられる怖れがあるから・・・」と、コソッと打ち明けられたことがあります。中国では刑罰の目的の比重が応報よりも教育の方が高いようでした。北朝鮮などはこの傾向がもっと強いと思われます。

刑務所に収監された90歳のA氏。二人の命を失わせてしまったことについては反省の言葉を述べていましたが、刑務所の中で今、何を考えているでしょうか。

※①禁錮・・・刑務所で長期間身柄を拘束される点では懲役刑と同じですが、懲役は労務作業を科せられるのに対し、禁錮は労務作業は科せられません。

※②実刑・・・「執行猶予」が付かず、実際に刑務所に身柄を収監されること。