第142回  職歴

職歴
①草取り、②田植え、③稲刈り、④七島(しっとう)運び、⑤七島割(わ)き、⑥新聞配達、⑦ベニヤ板工場でのベニヤ板製作、⑧深夜から早朝にかけての自動車の交通量調査、⑨家庭教師、⑩大学の入学試験の監督、⑪小学校の夜間警備員、⑫司法試験予備校の講師、⑬同校の模試の採点、⑭テレビ局でのニュースのコメンテーター、⑮大学の非常勤講師・・・
これらは一体何なのか、お分かりですか?
私がこれまで経験したことのある、弁護士以外の職業です。いわば、私の職歴です。さすがに、暴力団員と政治家はまだ経験したことはありませんが、それ以外はいろんな職業に就いたものであると、自分ながらに感心しています。中でも、ベニヤ板工場と警備員は今でも鮮明に記憶に残っています。
東京・亀戸のベニヤ板工場では、同じ仕事場に、一流企業をリストラにあったサラリーマン、脱サラなど、色んな経歴の人たちがいましたが、東北出身の出稼ぎのズーズー弁のオイちゃん達が沢山いました。ある夜、タイからの輸入材(原木)を薄く削って、巻いて、ベルトコンベアーで吊り上げて、レールに乗せて移動させるという作業に従事していた時のことです。その夜は、木材の切れ端を拾い集める作業ではなく、ボタンでベルトコンベアーを操作する楽な作業でした。「ラッキー!」と思いながら、いい加減にボタン操作していたところ、何百キロもある原木を数メートルも落としてしまいました。それをクレーンにつないで引き上げて元通りのレールに乗せるのが、さあ大変。ズーズー弁のオイちゃん達が何十分もかけて引き上げてくれました。その時、オイちゃん達から(ズーズー弁で)「ニイちゃん達はこれからエラくなるんだろうな。わしらは、これ以上、エラくなることはない。この木を上に引き上げても日雇いの賃金は上がらない。」と笑いながら言われました。その時、自分がいい加減な仕事をしたばっかりに出稼ぎのオイちゃん達に大きな損害を与えたことに気付かされました。若いバイトを叱るでもなく手助けしてくれた、優しい東北からの出稼ぎ労働者の人たちの存在を初めて知ったのでした。
東京・中野区の昭和小学校の夜間警備員をしていたのは、私が23歳の頃でした。当時はセコムなどがないため、警備員は区の臨時職員でした。夕方の3時頃学校に到着し、5時、9時、11時、翌朝6時の4回巡回し、8時頃退出します。その時、首に巡回時計を下げ、校舎の隅々に吊り下げられている何個かのキーをその巡回時計に差し込んで回し、いつ見回りをしたのかを時計の中のカードに記録して行くのです。そして、そのカードを警備日誌に張り付けて報告するのでした。学校にはクーラーなどなかったので、夏は滅茶苦茶に暑く、階が上に行けば蒸し風呂状態でした。その時、初めて知りました。小学校にも序列(階級)があるということを。校長→教頭→(平)教師→事務員→給食センターのおばちゃん→用務員の順番でした。そして、その下に、我々、警備員がいたのです。用務員室の主役は給食センターのおばちゃん達で、暇つぶしに必ずやって来て、先生の噂話をしていました。今となっては、すべてなつかしい思い出であるとともに、いい経験でした。校長先生と一緒に校庭の草むしりをしたこともあります。私が司法試験に合格した時、他の先生方から嫌われていた教頭先生から合格祝いの腕時計をいただき、晩ごはんを御馳走になったことも思い出しました。暑い夏が来ると、昭和小学校のことを思い出すのです。
弁護士になってからは他の職業に就くことは不可能になりましたが、いろんな職業を経験したことは決して損にはなっていません。むしろ、財産です。わが事務所にも、元ガソリンスタンドの給油係をしていた弁護士がいますが、極めて有力な戦力になってもらっています。国選弁護の刑事事件などで、検事が論告で「被告人は転職を繰り返し・・・」と述べて被告人の悪性を論ずる場面がありますが、「転職のどこが悪い。」と大声で弁護したいところです。