第30回  「忠」について

第30回  「忠」について
                                                        - 2011年1月14日  
「忠」について
 公務員は日本国に対し、忠誠を尽くす義務を負う。会社の役員は会社に対し、忠実に職務を執行する義務を負う。家来は主人に対し、忠誠を尽くす。忠犬ハチ公の物語は誰でも知っているように、帰らぬ主人を何年間も待ち続けて駅まで通った秋田犬の物語。渋谷駅前に立つと、意外と小さな忠犬ハチ公の銅像があります。何故、忠犬ハチ公の物語が我々の心を打つのか。それは、主を思う一途な姿勢が人間の心に響くからでしょう。
 確かに、憲法や法律でも、忠誠を求めたり忠実義務を求めたりしていますが、現実の社会で国家や会社のために心の底から忠誠を誓っている人間がどれだけいるか、心許ないところです。忠誠を誓うには、その対象たる人間にそれだけの人間的な魅力、人徳というものが兼ね備わっていなければなりません。いくら会社の社長が、「俺に忠誠を誓え。」と社員に迫っても、仕事はいい加減、時間は守らない、外に女を作る、社員を牛馬の如くこき使う、人を裏切る等などの人間であれば、誰が忠誠を誓ってくれるでしょうか。人の上に立つ者、部下に忠誠を誓ってもらえるような人間になるためには、日々、我が身を省みて、それに値する人間かどうかを自問自答し、それにふさわしい人間に己を磨き上げていかなければならないでしょう。

 先日、久々に、「忠」がテーマとなり、心に響く映画を観ました。『最後の忠臣蔵』。忠臣蔵の討ち入りシーンや、その後、赤穂浪士たちが切腹するシーンまでは、これまで映画やテレビで何度も映像化されていました。これも、大石内蔵助を始めとする赤穂浪士達が主君浅野内匠頭の仇討ちをするというストーリーで、それ自体「忠」がテーマとなっています。しかし、私に言わせれば、我慢性の無かった浅野内匠頭が松の廊下で狼藉を働いてしまった軽挙妄動に端を発する単なる復讐劇と言わなければならず、これまでさほど忠臣蔵そのものに共感を覚えていたわけではありません。
 『最後の忠臣蔵』は、その討ち入り後の1人の侍の生き様がテーマとなっております。その侍は、3代前から大石家の家臣であった瀬尾孫左衛門。討ち入り前夜、大石から、自分の隠し子を守って欲しいと言われ、秘かに身を隠し、16年間、その赤ん坊だった子どもを立派に育て、嫁がせ、最期に自決するという話です。名誉を重んじる武士の社会において、討ち入り前夜に1人敵前逃亡し(映画の中でこれを「逐電」と言っておりました。初めて聞いた言葉ですが、辞書によると、元々住んでいた場所に居られなくなって他の場所に隠れることという意味が記載されていました)、武士の身分を捨て、商人に身を代えて、16年間、大石内蔵助の隠し子を育て上げたというものです。「逐電」という汚名を着せられながら、それでも大石の命令を守り、商人に身を代えて子どもを育てるという、正に忠義を絵に描いたような内容で涙が絶え間なく流れ落ちてきました。そして、自分の役目が終わった後、先に逝った仲間を追うように自害する美学。「武士道」をそこに見たり。

 振り返って我が身に当てはめるに、女房・子どもさえ御し切れていないのに、私のために16年間、隠し子を預かってくれる部下はいないでしょう(これは勿論、仮に私に隠し子がいたらという仮定の話ですが・・・)。